ほどよい期待が子供を育む

最近は2学期制の学校も増えつつあり、夏休み前に必ず通知表が届くとは限らないようです。でも、まだ数多い3学期制の学校では、夏休みと1学期の区切りに通知表が家庭に届きます。

 

夏休みを間近に控えたあるお母さまの話です。

 

 

「通知表は、見ないことにしています。通知表に一喜一憂したくないのです。子どもが学校から持って帰るとすぐに、しまってしまいます。9月の新学期が始まるときに、判を押して持たせることにしています」

 

 

子どもの評価を目にすることが苦しい、心が揺れて子どもとの関係によくないものを持ち込んでしまいそうで不安、そういう気持ちから、「通知表は見ない」になってしまったようです。

 

親心には、不思議で悲しい部分があります。自分のことなら、それほどに強く感じることはないことでも、我が子のことになると無性につらいし苦しいと思うことがしばしばあります。

 

「自分が傷ついたときよりも、我が子が誰かに傷つけられたときのほうが苦しい」と言われたかたもあります。そして不思議なことに、苦しさのあまり我が子を強く叱ってしまったりもするのです。我が子の気持ち以上につらくなってしまって。

 

「叱るところではない」とわかっていながら、むしろ自分の苦しい気持ちをぶつけてしまうのも、親の心の悲しいところだと思うのです。

 

でも……ちょっと立ち止まって振り返ってみましょう。

お母さまが大人になるまでも、さまざまな評価を受けてきた経験がおありだと思います。

 

通知表だけではありません。近所のかたの一言だったり、大人になって勤務に就いた際の上司の言葉だったり、さまざまな評価に一喜一憂しながら、今は「母親」としてがんばっておられるのです。

 

そして今大人としてここにあるあなたにとって大切だったことは、一喜一憂の陰で誰かが自分に期待をもってくれていた、ということだと思うのです。

 

誰もが、さまざまに与えられる自分への評価に、励まされたり傷ついたりしながら成長していきます。そのときに「あなたはがんばっているよ。大丈夫」と言ってくれる人がそばにいて、その言葉に込められた自分への期待をエネルギーにして、また次の一歩を踏み出せるのだと思うのです。

 

確かに通知表は、「評価」が伝えられるものです。良いことばかりが書かれているとは限りません。あるいは、お母さまの思っていたこととは違っているかもしれません。評価は、その時点のある一部が表されているものです。

 

評価にまったく目を向けないというのでは、お子さまは不安になったり、評価をおろそかにするようになったりしてしまいます。それでは、この先さまざまな評価に向き合っていく力を培うことができません。

 

どのような評価も、その時点でのある一部についての表現です。それを受け止めて一歩進む力こそが、生きる力です。お子さまよりも深くお母さまが一喜一憂してしまっては、お子さまは自分のこととして受け取ることができなくなってしまいます。

 

この時点で伝えられた評価に喜びがあって、何気なく過ぎることもあるでしょうが、むしろ「がっかりだなあ」という気持ちを乗り越えて次にがんばることがもっと大切です。

 

子どものときに学校での評価が良くなかった人が大人になって成功している話に心惹かれるのは、ひとときの評価を乗り越えた姿を見せてもらったからではないかと思います。

そして、このような人の話には、たいてい誰か自分への期待をもってくれる人がそばにいて、その期待を伝えてもらっていたというエピソードが出てきます。

 

この場合の期待は、目の前の数値目標ではなく、あくまでその人の成長への期待です。その人を大切に思い、「……になったら・だったらいいね」と柔らかく期待を持ち続けることが、遠い将来に力となって返ってきています。

 

通知表は、お子さまといっしょにしっかり眺めましょう。そして、一喜一憂にゆったりと付き合いましょう。お母さまのほどよい柔らかい期待こそが、お子さまの次の一歩のエネルギーになります。

お子さまの夏休みが、楽しく充実したものでありますように。